遺跡名 | 国 | 州 | WGS84_E | WGS84_N |
ドーラーヴィーラー(Dholavira) | India | Gujarat | 70.21666667 | 23.88611111 |
ロータル(Lothal) | India | Gujarat | 72.24972222 | 22.52361111 |
スールコータダー(Surkotada) | India | Gujarat | 70.91730556 | 23.61130556 |
ラーキーガリー(Rakhigarhi) | India | Haryana | 76.11339 | 29.29152 |
バールー(Balu) | India | Haryana | 76.38575 | 29.66955 |
バナーワリー(Banawali) | India | Haryana | 75.3928 | 29.59756 |
ファルマーナー(Farmana) | India | Haryana | 76.3084 | 29.04058 |
ローパル(Ropar) | India | Indian Punjab | 76.524161 | 30.97155 |
カーリーバンガン(Kalibangan) | India | Rajasthan | 74.12994 | 29.47277 |
ナウシャロー(Nausharo) | Pakistan | Balochistan | 67.587816 | 29.364673 |
ガンウェリワーラー(Ganweriwala) | Pakistan | Pakistan Punjab | 71.15 | 28.59888889 |
ハラッパー(Harappa) | Pakistan | Pakistan Punjab | 72.86666667 | 30.63333333 |
ラーカンジョダロ(Lakhanjodaro) | Pakistan | Sindh | 68.84758333 | 27.72536111 |
モヘンジョダロ(Mohenjodaro) | Pakistan | Sindh | 68.11666667 | 27.3 |
2013年2月21日木曜日
インダス文明の都市遺跡 Major urban sites of the Indus Civilization
2013年2月1日金曜日
インダス文明期の墓制 Burial practices of the Indus Civilization
インダス文明の遺跡では、墓地が居住域から分離されるかたちで墓地が築かれるのが一般的である。これまでに文明期の墓葬・墓地が発見された遺跡としてはハラッパー遺跡(Wheeler 1947; Dales et al. 1991)、カーリーバンガン遺跡(Thapar 1975; Sharma 1999)、ラーキーガリー遺跡(Nath 2001)、ファルマーナー遺跡(Shinde et al. 2011)、ローパル遺跡(Sharma 1955-56)、ドーラーヴィーラー遺跡(Bisht 1997)、ロータル遺跡(Rao 1979)、メヘルガル遺跡(Jarrige et al. 1995)などがある。墓地は居住域の西側に設けられているが、居住域に近いところに位置する例もあれば居住域から1km以上離れたところに位置する例もある。
インダス文明期の墓地が発見された遺跡と墓地の位置 |
インダス文明期の墓地 |
墓地には墓葬が密集して築かれるが、埋葬施設の主体は単純な土壙墓である。中には日干煉瓦槨を伴う例も知られている。土壙内には遺体が直葬される例と木棺に遺体を納めて埋葬した例がある。遺体は完全な状態で検出されるものが多いが、中には一部の骨のみが検出されている例も多く、再葬が行なわれていた可能性もある。いまのところ明確な火葬例はない。
ファルマーナー遺跡の墓葬 |
副葬品には土器、装身具があるが、土器を副葬する例が圧倒的に多く、石や銅でつくられた装身具が出土する例は限られている。また、まったく副葬品を伴わない例も多い。
ファルマーナー遺跡20号墓 凍石製玉からなる頭飾、銅製腕輪、貝製腕輪、凍石製玉からなる足首飾を装着した例 |
墓葬間で埋葬施設の規模や副葬品の種類・数量に明確な差異がみられないのもインダス文明期の墓葬の特徴である。つまり、王や高い社会的地位にある人々を葬ったであろう他を圧倒するような大規模な厚葬墓は存在しない。こうした状況をどのように解釈するか難しいが、葬送行為を通して社会的地位を表示するという観念が発達していなかった可能性が高い。
こうした文明期に一般的にみられた土壙墓・伸展葬という墓制は前1700年頃まで続いたようである。ハラッパー遺跡H墓地では前1700〜前1500年頃の墓葬が発見されているが(Vats 1940; Wheeler 1947)、この時期には土器棺内再葬という墓制がみられるようになる。つまり、文明期の墓制とは明らかに異なっており、この頃に葬送観念に大きな変化が生じたことを物語っている。おそらくこの墓制の変化は社会の変化と深くかかわっているであろうことが推測される。
【文献】
- Bisht, R.S. 1997 Dholavira Excavations: 1990-94. In J.P. Joshi ed. Facets of Indian Civilization: Recent Perspectives. Aryan Books International: New Delhi. pp. 107-120.
- Dales, G.F., J.M. Kenoyer and the staffs of the Harappa Project 1991 Summaries of Five Seasons of Research at Harappa (District Sahiwal, Punjab, Pakistan) 1986-1990. In R.H. Meadow ed. Harappa Excavations 1986-90: A multidisciplinary Approach to Third Millennium Urbanism. Prehistory Press: Madison. pp. 185-262.
- Jarrige, C., J. -F. Jarrige, R.H. Meadow and G. Quivron 1995 Mehrgarh: Field Reports 1974-1985: From Neolithic Times to the Indus Civilization. The Department of Culture and Tourism, Government of Sindh, Pakistan: Karachi.
- Nath, A. 2001 Rakhigarhi: 1999-2000. Purãtattva 31: 43-46.
- Rao, S.R. 1979/85 Lothal: a Harappan Port Town 1955-62, 2 vols. Memoirs of the Archaeological Survey of India 78. Archaeological Survey of India: New Delhi.
- Sharma, A.K. 1999 The Departed Harappans of Kalibangan. Sundeep Prakashan: New Delhi.
- Sharma, Y.D. 1955-56 Past Patterns in Living as Unfolded by Excavations at Rupar. Lalit Kala 1-2: 121-129.
- Shinde, V., T. Osada and Manmohan Kumar eds. 2011 Excavations at Farmana, Rohtak District, Haryana, India 2006-2008. Indus Project, Research Institute for Humanity and Nature: Kyoto.
- Thapar, B.K. 1975 Kalibangan: a Harappan Metropolis beyond the Indus Valley. Expedition 17(2): 19-32.
- Vats, M.S. 1940 Excavations at Harappa. Government of India Press: Delhi.
- Wheeler, R.E.M. 1947 Harappa 1946: The Defences and Cemetery R37. Ancient India 3: 58-130.
2013年1月23日水曜日
ローマ貨幣 Roman coins in South Asia
インドでは前1世紀〜後3世紀頃を中心にアラビア海を介した西方との交易が盛んとなった。インドや東南アジアの香辛料がローマ世界で珍重されたことは『エリュトゥラー海案内記』にも記されるところである。南アジア、特にアラビア海やベンガル湾に面するインド半島部で発見されるローマ貨幣はそうした海洋交易の証拠の一つである。
南アジアで発見されたローマ貨幣についてはターナー(P.J. Turner)が網羅的な検討を行っている(Turner 1989)。彼女の研究によれば、インドで発見されるローマ貨幣でもっとも古いのはアウグストゥス帝(前27〜後14年)のもので、帝政ローマ以前の貨幣は発見されていない。初期にはデナリウス銀貨(前211年にはじまるローマ銀貨で、アウグストゥス帝以前は4.5g、アウグストゥス帝期からネロ帝期以前は3.9g、ネロ帝以後は3.4g)が一般的で、ユリウス=クラウディア朝期(アウグストゥス帝からネロ帝までの時期、前27〜後68年)を通してアウレウス金貨(前1世紀〜後4世紀ごろのローマ金貨。ネロ帝以前は8g、ネロ帝以後は7.3gで、25枚のデナリウス銀貨に相当する)の重要性が高まるとされる。
【文献】
ヴィーラヴァサラム出土のローマ貨幣(Turner 1989による) |
南アジアで発見されたローマ貨幣についてはターナー(P.J. Turner)が網羅的な検討を行っている(Turner 1989)。彼女の研究によれば、インドで発見されるローマ貨幣でもっとも古いのはアウグストゥス帝(前27〜後14年)のもので、帝政ローマ以前の貨幣は発見されていない。初期にはデナリウス銀貨(前211年にはじまるローマ銀貨で、アウグストゥス帝以前は4.5g、アウグストゥス帝期からネロ帝期以前は3.9g、ネロ帝以後は3.4g)が一般的で、ユリウス=クラウディア朝期(アウグストゥス帝からネロ帝までの時期、前27〜後68年)を通してアウレウス金貨(前1世紀〜後4世紀ごろのローマ金貨。ネロ帝以前は8g、ネロ帝以後は7.3gで、25枚のデナリウス銀貨に相当する)の重要性が高まるとされる。
南アジアにおけるローマ貨幣出土遺跡の分布(Turner 1989をもとに作成) |
【文献】
Turner, P.J. 1989 Roman Coins from India. Royal Numismatic Society, London.
2013年1月18日金曜日
インダス文明期の土偶 Terracotta Figurines during the Indus urban period
インダス文明期(前2600〜前1900年頃)には人物と動物をかたどった土偶が多くつくられた。人物には女性と男性、さらには両性偶有のものがあり、動物では一角獣、コブウシ、スイギュウ、サイ、ゾウなどの例が知られている。また、コブウシ形土偶に深くかかわる遺物として牛車形土製品や車輪形土製品がある。
この時期の土偶はいずれも手捏ねで製作されており、貼付技法や沈線によって細部・文様を表現する。
このインダス文明期の土偶については、その起源は不明である。バローチスターン地方を中心に先文明期(前4000〜前2600年頃)以来、人物・動物土偶ともに製作されてきたが、形態的に文明期にみられる土偶の祖形と考えられるものは知られていない。
また、人物土偶やコブウシを除く動物土偶はパンジャーブ地方(ハラッパー遺跡)やシンド地方(モヘンジョダロ遺跡)といったインダス文明社会の核となる地域でしか出土しないか、周辺地域ではごくわずかに知られる程度である。
土偶とは異なるが、獣角をもつ土製人面もインダス文明の中核地域に特徴的である。印章に彫刻された図柄の中にも獣身で角をもつ人面の想像獣が見いだされる。インダス印章に描かれた図柄をみると、角をもつ動物に対する志向性が存在することが明らかで、さらに獣角を重要視する伝統が先文明期から文明期にかけて存在する。文明期には獣角を関する神あるいは王を描いた印章も知られている。こうした例から考えると、角をもつ動物に対する信仰が存在し、それが人間と合体することによってより文明社会を支える宗教的あるいは政治的な権威へと昇華されたのであろう。
こうした土偶が何に使われたのか示す直接的な証拠(例えば寺院や墓に伴う出土状況)はないが、当時の人々の精神世界を表象する重要な器物であることは確かである。時にこうした器物を捉えて玩具と解釈する研究もあるが、仮に玩具という名称を与えるにしても、純粋に「おもちゃ」としてではなく、インダス文明社会に生きた人々の世界観であったり創造性を投影するものとして検討が必要である。「造形行為」というもの自体がある社会に共有される固有の営為であるからである。
モヘンジョダロ遺跡出土人物土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土人物土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土人物土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土人物土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土人物土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土人物土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土人物土偶(Mackay 1938より) |
この時期の土偶はいずれも手捏ねで製作されており、貼付技法や沈線によって細部・文様を表現する。
このインダス文明期の土偶については、その起源は不明である。バローチスターン地方を中心に先文明期(前4000〜前2600年頃)以来、人物・動物土偶ともに製作されてきたが、形態的に文明期にみられる土偶の祖形と考えられるものは知られていない。
また、人物土偶やコブウシを除く動物土偶はパンジャーブ地方(ハラッパー遺跡)やシンド地方(モヘンジョダロ遺跡)といったインダス文明社会の核となる地域でしか出土しないか、周辺地域ではごくわずかに知られる程度である。
モヘンジョダロ遺跡出土イヌ形土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土ゾウ形土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土ウサギ形土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土コブウシ形土偶(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土トラ形土偶(Mackay 1938より) |
土偶とは異なるが、獣角をもつ土製人面もインダス文明の中核地域に特徴的である。印章に彫刻された図柄の中にも獣身で角をもつ人面の想像獣が見いだされる。インダス印章に描かれた図柄をみると、角をもつ動物に対する志向性が存在することが明らかで、さらに獣角を重要視する伝統が先文明期から文明期にかけて存在する。文明期には獣角を関する神あるいは王を描いた印章も知られている。こうした例から考えると、角をもつ動物に対する信仰が存在し、それが人間と合体することによってより文明社会を支える宗教的あるいは政治的な権威へと昇華されたのであろう。
モヘンジョダロ遺跡出土土製人面(Mackay 1938より) |
モヘンジョダロ遺跡出土土製人面(Mackay 1938より) |
こうした土偶が何に使われたのか示す直接的な証拠(例えば寺院や墓に伴う出土状況)はないが、当時の人々の精神世界を表象する重要な器物であることは確かである。時にこうした器物を捉えて玩具と解釈する研究もあるが、仮に玩具という名称を与えるにしても、純粋に「おもちゃ」としてではなく、インダス文明社会に生きた人々の世界観であったり創造性を投影するものとして検討が必要である。「造形行為」というもの自体がある社会に共有される固有の営為であるからである。
北インド初期歴史時代の都市 Early Historic cities in North India
前6世紀頃になると、北インドのガンガー平原において都市形成が進む。このことは初期仏典や考古資料に窺うことができる。19世紀後半のイギリス人考古学者アレクサンダー・カニンガムの調査によって、仏典や中国人求法僧たちの記録と実際の遺跡との対比研究が進められた結果、多くの遺跡が古代都市に同定されることになった。
カニンガム以来、断続的にそうした都市遺跡の発掘調査が進められているが、必ずしも調査・研究は活発ではなく、古代都市の様相はよくわかっていない。断片的な調査成果によれば、前6世紀頃に広大な面積(最盛期には150〜200ヘクタール前後)をもつ都市(的集落)が出現し、前3世紀頃までに都市の範囲を区画する城壁が築かれたことがわかっている。これらの古代都市は1〜3世紀頃に最盛期を迎えたようだが、4世紀以降、段階的に都市の規模縮小や衰退が進み、最終的には6世紀頃までに廃絶する。
北インドの代表的な都市遺跡 |
カニンガム以来、断続的にそうした都市遺跡の発掘調査が進められているが、必ずしも調査・研究は活発ではなく、古代都市の様相はよくわかっていない。断片的な調査成果によれば、前6世紀頃に広大な面積(最盛期には150〜200ヘクタール前後)をもつ都市(的集落)が出現し、前3世紀頃までに都市の範囲を区画する城壁が築かれたことがわかっている。これらの古代都市は1〜3世紀頃に最盛期を迎えたようだが、4世紀以降、段階的に都市の規模縮小や衰退が進み、最終的には6世紀頃までに廃絶する。
インド共和国ウッタル・プラデーシュ州 マトゥラー遺跡 |
インド共和国ウッタル・プラデーシュ州 アヒッチャトラ−遺跡 |
インド共和国ウッタル・プラデーシュ州 カウシャーンビ−遺跡 |
インド共和国ビハール州 バリラージガル遺跡 |
インド共和国ウッタル・プラデーシュ州 マヘート(シュラーヴァスティー)遺跡 |
バングラデーシュ人民共和国 マハースターンガル遺跡 |
インド共和国ウッタル・プラデーシュ州 ラージガート(カーシ)遺跡 |
インド共和国ビハール州 ラージギル(ラージャグリハ)遺跡 |
ネパール連邦民主共和国ルンビニー県 ティラウラーコート(カピラヴァストゥ?)遺跡 |
インド共和国ビハール州 ヴァイシャーリー遺跡 |
2013年1月16日水曜日
インダス文明の装身具 Indus jewelry
インダス文明期(前2600〜前1900年頃)にはさまざまな素材の装身具が用いられた。石製、金製、銀製、銅製、貝製、土製、ファイアンス製のものがある。それぞれの素材はインダス文明が広がった広大な範囲の各地に偏在するもので、各種素材の装身具の分布は素材の獲得から加工、流通、消費にいたる一連の交易ネットワークの存在を示している。
石製のものは玉類、金・銀・銅のものは玉類や腕飾類、貝は腕飾類、土製・ファイアンス製は玉類・腕飾類に用いられる。
もっとも数が多く出土するのは石製装身具で、凍石、紅玉髄、瑪瑙、玉髄、碧玉、ラピスラズリ、アマゾナイトなどさまざまな石材が用いられているが、それぞれ産地は異なっている。例えば、凍石はパキスタン北部のハザーラ地方やラージャスターン地方のアラワリー山脈、紅玉髄、瑪瑙、碧玉、アマゾナイトはグジャラート地方やバローチスターン地方、ラピスラズリはアフガニスタン北部のバダフシャン地方で産出する。こうした各地に分散して産出する石材で製作された装身具はインダス文明各地の遺跡で出土する。
石材はそれぞれ色調が異なっており、そうした異なる色調の石材に対して当時の人々の審美観や価値観が投影されていると考えられる。さらに石材によっては加熱することによって色調を変化させたものもあり、特定の色調に対する志向性を顕著に示している。例えば、凍石は本来の色調は灰色系を呈するが、最終的に玉に仕上げられたものは白色を呈している。これは1000度前後の高温で凍石を加熱することによって白色に仕上げたものである。また、鮮やかなオレンジ色を呈する紅玉髄も加熱によって石材本来の色調を変化させている。
また、硬度も石材によって異なっており、装身具に仕上げる技術も異なっている。凍石は非常に柔らかい石で、金属製(おそらく銅製)の鋸で切断し、研磨を施して製作する。紅玉髄や瑪瑙、碧玉は非常に硬く、敲打によって形を整え、研磨を施して仕上げる。硬い石に穿孔するためにはそれ以上の硬さの石材でつくられた穿孔具や研磨剤の使用が必要となるが、インダス文明期にはアーネスタイトと呼ばれる硬い石材でつくられた穿孔具を用い、弓錐による回転穿孔技法を使う。
インダス地域で製作されたと考えられる装身具(主に玉類)はメソポタミアやアラビア湾岸地域でも出土しており、交易品として広く珍重されたことを物語っている。
【文献】
装身具に用いられた各種素材の原産地 |
石製のものは玉類、金・銀・銅のものは玉類や腕飾類、貝は腕飾類、土製・ファイアンス製は玉類・腕飾類に用いられる。
もっとも数が多く出土するのは石製装身具で、凍石、紅玉髄、瑪瑙、玉髄、碧玉、ラピスラズリ、アマゾナイトなどさまざまな石材が用いられているが、それぞれ産地は異なっている。例えば、凍石はパキスタン北部のハザーラ地方やラージャスターン地方のアラワリー山脈、紅玉髄、瑪瑙、碧玉、アマゾナイトはグジャラート地方やバローチスターン地方、ラピスラズリはアフガニスタン北部のバダフシャン地方で産出する。こうした各地に分散して産出する石材で製作された装身具はインダス文明各地の遺跡で出土する。
インド共和国ハリヤーナー州ファルマーナー遺跡出土の紅玉髄製玉類 |
石材はそれぞれ色調が異なっており、そうした異なる色調の石材に対して当時の人々の審美観や価値観が投影されていると考えられる。さらに石材によっては加熱することによって色調を変化させたものもあり、特定の色調に対する志向性を顕著に示している。例えば、凍石は本来の色調は灰色系を呈するが、最終的に玉に仕上げられたものは白色を呈している。これは1000度前後の高温で凍石を加熱することによって白色に仕上げたものである。また、鮮やかなオレンジ色を呈する紅玉髄も加熱によって石材本来の色調を変化させている。
インド共和国ハリヤーナー州ファルマーナー遺跡出土の凍石製玉類 |
また、硬度も石材によって異なっており、装身具に仕上げる技術も異なっている。凍石は非常に柔らかい石で、金属製(おそらく銅製)の鋸で切断し、研磨を施して製作する。紅玉髄や瑪瑙、碧玉は非常に硬く、敲打によって形を整え、研磨を施して仕上げる。硬い石に穿孔するためにはそれ以上の硬さの石材でつくられた穿孔具や研磨剤の使用が必要となるが、インダス文明期にはアーネスタイトと呼ばれる硬い石材でつくられた穿孔具を用い、弓錐による回転穿孔技法を使う。
インド共和国グジャラート州カーンメール遺跡出土のアーネスタイト製穿孔具 |
インダス地域で製作されたと考えられる装身具(主に玉類)はメソポタミアやアラビア湾岸地域でも出土しており、交易品として広く珍重されたことを物語っている。
【文献】
- Kenoyer, J.M. 2005 Bead Technologies at Harappa, 3300-1900BC: A Comparative Summary. South Asian Archaeology 2001. Editions Recherche sur les Civilisations, Paris. pp. 157-170.
南インド巨石文化 South Indian Megalith culture
インド半島部に広く分布する大型の石材を用いて構築された墓葬(巨石墓)を特徴とする文化。北はマハーラーシュトラ州のナーグプル周辺から南はタミル・ナードゥ州、ケーララ州にまで分布する。また、スリランカでもその分布が知られる。主な例を下の地図に示す。
より大きな地図で South Indian megaliths を表示
年代的には前700年頃のナーグプル周辺の例がもっとも古く、地域によっては紀元後の時期まで続く。
巨石墓を指標として「南インド巨石文化」として一括されるが、使用される石材やその配置、埋葬主体の構築方法・形態などに多様性がみられる。深尾淳一(1994b)によれば7つの地域型に分けられるとされる。年代的にみると、北から南へと展開した可能性が指摘されるが、その拡散の過程や地域間の関係はよくわかっていない。
ブラフマギリ遺跡の巨石墓(Wheeler 1948より) |
サーヌール遺跡の巨石墓(Banerjee and Soundra Rajan 1959より) |
土器や鉄器、青銅器などが副葬されるが、土器では黒縁赤色土器が広く用いられる。ナーグプル周辺の例では青銅製馬具を副葬した例もある。
南インドの黒縁赤色土器(ギメー美術館所蔵) |
【文献】
- Banerjee, N.R. and K.V. Soundra Rajan 1959 Sanur 1950 & 1952: a Megalithic Site in District Chingleput. Ancient India 15: 4-42.
- Wheeler, R.E.M. 1948 Brahmagiri and Chandravalli 1947: Megalithic and other Cultures in Mysore State. Ancient India: 180-310.
- 深尾淳一1990「南インド「巨石」文化におけるドルメンの位置付けについて」『アジアの巨石文化-ドルメン・支石墓考』(八幡一郎編)、六興出版.
- 深尾淳一1993「南インド=メガリス文化期の土器研究」『インド考古研究』第15号、インド考古研究会、37~40頁.
- 深尾淳一1994a「南インド・メガリス文化期の土器研究(2)」『インド考古研究』第16号
- インド考古研究会、125~127頁.
- 深尾淳一1994b「巨石文化の地域的展開」『ドラヴィダの世界 インド入門Ⅱ』(辛島昇編)、東京大学出版会、128~140頁.
2013年1月11日金曜日
ハラッパー式土器 Harappan pottery
インダス文明期(前2600〜前1900年頃)を特徴づける土器様式の一つ。現在のパキスタン、パンジャーブ州に所在するハラッパー遺跡から出土した土器を標式とすることから、その遺跡名をとってハラッパー式土器と呼ばれる。
インダス文明研究の初期に発掘調査されたハラッパー遺跡(Vats 1940; Wheeler 1947; Jenkins 1994)とモヘンジョダロ遺跡(Marshall 1931; Mackey 1938; Dales and Kenoyer 1986)で類似する土器が出土したことから、それらを一括してインダス文明期の土器様式として把握されたが、実際のところ何がハラッパー式土器なのか明確に定義した研究はなく、研究者間で誤解・誤認を含む意見の相違がみられることが多い。
ハラッパー遺跡とモヘンジョダロ遺跡の資料を基準とすれば、ロクロを用いた高速回転による成形・調整を技術的特徴とし、壺、甕、鉢、皿、高杯、多孔土器などの器種によって構成される。つまり、食膳具、調理具、貯蔵具の各種機能をもつ土器がハラッパー式土器を構成する。彩文土器と無文土器があるが、そのうち彩文土器は非常に特徴的な文様要素と文様構成を有することから、ハラッパー式土器かどうか判別する上で有効である。
ハラッパー式土器は先インダス文明期のシンド地方およびパンジャーブ地方に展開したコート・ディジー式土器を祖形とする可能性が高いが、コート・ディジー式土器とハラッパー式土器の間には器形・彩文における差異も顕著にみられ、ハラッパー式土器の成立過程においてはコート・ディジー式土器の要素のみならず、バローチスターン地方のファイズ・ムハンマド式土器の要素も一部取り込まれている可能性がある(上杉・小茄子川2008)。
700〜800年続いたインダス文明期においてハラッパー式土器にも時期によって変化のあることが近年の研究で明らかにされつつある。G. Quivronの研究(2000)によれば、少なくとも4時期(出現期、前期、中期、後期)に分かれることが指摘されているが、公表資料が少なく、その実態は今後の研究に俟たざるを得ないところが多い。
ハラッパー式土器はその前期の段階において非常に広範な地域(東西・南北ともに1800km)へと拡散したことが知られている。その広範な分布は後期にまで続いており、ハラッパー式土器の分布範囲がインダス文明の範囲として把握されることが多い。これだけ広い範囲に分布することから、ハラッパー式土器にも地域性が存在する可能性があるが、現在のところ少なくとも製作技法、器形、彩文の各要素において明確な地域性は確認されていない。
シンド地方、パンジャーブ地方の遺跡ではハラッパー式土器のみが出土するようだが、周辺のガッガル地方、バローチスターン地方、グジャラート地方ではハラッパー式土器だけでなく、先文明期以来の在地土器も出土する。つまり、周辺地域ではハラッパー式土器と在地土器がともに用いられていたことになる。両者の間には製作・消費を通した交流関係があり、在地土器がハラッパー式土器を模倣した例やハラッパー式土器に在地土器の要素が取り込まれた例がある。
文明後半期にはハラッパー式土器の変化が顕著となり、周辺地域では在地土器の要素を取り込みつつ、最終的にはポスト文明期(前1900〜前1500年頃)の地域土器様式へと分岐していくことになる。
【参考文献】
インド共和国ハリヤーナー州ファルマーナー遺跡出土のハラッパー式土器 |
インダス文明研究の初期に発掘調査されたハラッパー遺跡(Vats 1940; Wheeler 1947; Jenkins 1994)とモヘンジョダロ遺跡(Marshall 1931; Mackey 1938; Dales and Kenoyer 1986)で類似する土器が出土したことから、それらを一括してインダス文明期の土器様式として把握されたが、実際のところ何がハラッパー式土器なのか明確に定義した研究はなく、研究者間で誤解・誤認を含む意見の相違がみられることが多い。
インド共和国ハリヤーナー州ファルマーナー遺跡出土のハラッパー式土器 |
ハラッパー遺跡とモヘンジョダロ遺跡の資料を基準とすれば、ロクロを用いた高速回転による成形・調整を技術的特徴とし、壺、甕、鉢、皿、高杯、多孔土器などの器種によって構成される。つまり、食膳具、調理具、貯蔵具の各種機能をもつ土器がハラッパー式土器を構成する。彩文土器と無文土器があるが、そのうち彩文土器は非常に特徴的な文様要素と文様構成を有することから、ハラッパー式土器かどうか判別する上で有効である。
ハラッパー式土器は先インダス文明期のシンド地方およびパンジャーブ地方に展開したコート・ディジー式土器を祖形とする可能性が高いが、コート・ディジー式土器とハラッパー式土器の間には器形・彩文における差異も顕著にみられ、ハラッパー式土器の成立過程においてはコート・ディジー式土器の要素のみならず、バローチスターン地方のファイズ・ムハンマド式土器の要素も一部取り込まれている可能性がある(上杉・小茄子川2008)。
ハラッパー式彩文土器の編年案(上杉・小茄子川2008より) |
700〜800年続いたインダス文明期においてハラッパー式土器にも時期によって変化のあることが近年の研究で明らかにされつつある。G. Quivronの研究(2000)によれば、少なくとも4時期(出現期、前期、中期、後期)に分かれることが指摘されているが、公表資料が少なく、その実態は今後の研究に俟たざるを得ないところが多い。
ハラッパー式土器はその前期の段階において非常に広範な地域(東西・南北ともに1800km)へと拡散したことが知られている。その広範な分布は後期にまで続いており、ハラッパー式土器の分布範囲がインダス文明の範囲として把握されることが多い。これだけ広い範囲に分布することから、ハラッパー式土器にも地域性が存在する可能性があるが、現在のところ少なくとも製作技法、器形、彩文の各要素において明確な地域性は確認されていない。
シンド地方、パンジャーブ地方の遺跡ではハラッパー式土器のみが出土するようだが、周辺のガッガル地方、バローチスターン地方、グジャラート地方ではハラッパー式土器だけでなく、先文明期以来の在地土器も出土する。つまり、周辺地域ではハラッパー式土器と在地土器がともに用いられていたことになる。両者の間には製作・消費を通した交流関係があり、在地土器がハラッパー式土器を模倣した例やハラッパー式土器に在地土器の要素が取り込まれた例がある。
文明後半期にはハラッパー式土器の変化が顕著となり、周辺地域では在地土器の要素を取り込みつつ、最終的にはポスト文明期(前1900〜前1500年頃)の地域土器様式へと分岐していくことになる。
【参考文献】
- Dales, G.F. and J.M. Kenoyer 1986 Excavations at Mohenjo Daro, Pakistan: The Pottery. University Museum Monograph 53. The University Museum, Philadelphia.
- Jenkins, P.C. 1994 Continuity and change in the ceramic sequence at Harappa. South Asian Archaeology 1993. Suomalainen Tiedeakatemia, Helsinki. pp. 315-328.
- Mackey, E.J.H. 1938 Further Excavations at Mohenjo-daro. Government of India Press, New Delhi.
- Marshall, J.H. 1931 Mohenjo-daro and the Indus Civilization. Arthur Probsthain, London.
- Quivron, G. 2000 The Evolution on the Mature Indus Pottery Style in the Light of the Excavations at Nausharo, Pakistan. East and West 50(1-4): 147-190.
- Vats, M.S. 1940 Excavations at Harappa. Government of India Press, Delhi.
- Wheeler, R.E.M. 1947 Harappa 1946: The Defences and Cemetery R37. Ancient India 3: 58-130.
- 上杉彰紀・小茄子川歩 2008「インダス文明社会の成立と展開に関する一考察」『西アジア考古学』9: 101-118.
2013年1月10日木曜日
彩文灰色土器 Painted Grey Ware
英名Painted Grey Wareの訳名。PGWとも略称する。1940〜44年に実施されたアヒッチャトラ−遺跡の発掘調査で出土した、彩文が施された灰色土器に与えられた。
1950〜51年に行われたハスティナープラ遺跡の発掘調査で、赭色土器が出土する文化層と北方黒色磨研土器が出土する文化層の間から単独で彩文灰色土器が出土する層序が確認され、前1100〜前800年の年代が与えられた(Lal 1954)。この年代観がその後の彩文灰色土器研究の出発点となっているが、その後の調査によってこの土器は前1300年頃までさかのぼる可能性が指摘されるようになり(Joshi 1993)、また前300年頃まで存続する可能性も確認されるようになった(Härtel 1993)。
その初現年代については後期ハラッパー文化期(ポスト・インダス文明期とも呼ばれる)に属するバーラー式土器との共伴がバグワーンプラ遺跡などの調査で確認されたことが大きな手掛かりとなっている。また、その消滅時期についてはソーンク遺跡でNBPW後期の文化層の直下に彩文灰色土器出土層が位置することや、NBPW後期の土器に彩文灰色土器の器形が取り込まれていることなどが証拠となる。
その分布はガンジス平原西半部(現在のインド共和国パンジャーブ州、ハリヤーナー州、ウッタル・プラデーシュ州西部)を中心としており、その周辺部でもわずかに出土する。前1千年紀前葉(前1000〜前600年頃)においては東の黒縁赤色土器・黒色スリップ土器と、前1千年紀中葉(前600〜前300年頃)においては同じく東の北方黒色磨研土器と交流関係があったことが知られる。
ハスティナープラ遺跡の調査にあたったB.B. Lalは彩文灰色土器をアーリア人の土器と解釈したが、その出現過程も十分にわかっておらず、現状では「アーリア人の土器」という理解ではなく、アーリア人が北インドに移住した時期に併行する土器として捉えておく方が適切であろう。
【参考文献】
インド共和国ハリヤーナー州出土の彩文灰色土器 |
1950〜51年に行われたハスティナープラ遺跡の発掘調査で、赭色土器が出土する文化層と北方黒色磨研土器が出土する文化層の間から単独で彩文灰色土器が出土する層序が確認され、前1100〜前800年の年代が与えられた(Lal 1954)。この年代観がその後の彩文灰色土器研究の出発点となっているが、その後の調査によってこの土器は前1300年頃までさかのぼる可能性が指摘されるようになり(Joshi 1993)、また前300年頃まで存続する可能性も確認されるようになった(Härtel 1993)。
インド共和国ハリヤーナー州出土の彩文灰色土器 |
その初現年代については後期ハラッパー文化期(ポスト・インダス文明期とも呼ばれる)に属するバーラー式土器との共伴がバグワーンプラ遺跡などの調査で確認されたことが大きな手掛かりとなっている。また、その消滅時期についてはソーンク遺跡でNBPW後期の文化層の直下に彩文灰色土器出土層が位置することや、NBPW後期の土器に彩文灰色土器の器形が取り込まれていることなどが証拠となる。
その分布はガンジス平原西半部(現在のインド共和国パンジャーブ州、ハリヤーナー州、ウッタル・プラデーシュ州西部)を中心としており、その周辺部でもわずかに出土する。前1千年紀前葉(前1000〜前600年頃)においては東の黒縁赤色土器・黒色スリップ土器と、前1千年紀中葉(前600〜前300年頃)においては同じく東の北方黒色磨研土器と交流関係があったことが知られる。
前6〜前4世紀頃の彩文灰色土器の分布 |
ハスティナープラ遺跡の調査にあたったB.B. Lalは彩文灰色土器をアーリア人の土器と解釈したが、その出現過程も十分にわかっておらず、現状では「アーリア人の土器」という理解ではなく、アーリア人が北インドに移住した時期に併行する土器として捉えておく方が適切であろう。
【参考文献】
- Hartel, H. 1993 Excavations at Sonkh: 2500 years of a town in Mathura District. Dietrich Reimer Verlag, Berlin.
- Joshi, J.P. ed. 1993 Excavation at Bhagwanpura 1975-76 and Other Explorations & Excavations 1975-81 in Haryana, Jammu & Kashmir and Punjab. Memoirs of the Archaeological Survey of India no.89, Archaeological Survey of India, New Delhi.
- Lal, B.B. 1954 Excavation at Hastinapura and Other Explorations in the Upper Ganga and Sutlej Basins 1950-52. Ancient India 10 & 11: 5-151.
- 上杉彰紀 1997「北インドにおける精製土器 彩文灰色土器と黒縁赤色土器を中心に」『インド考古研究』第18号: 52-90.
北方黒色磨研土器 Northen Black Polished Ware
英名Northern Black Polished Wareの日本語名。NBPWと略称で呼ばれることもある。前6世紀〜前1世紀頃に北インドを中心に分布した土器。
1940〜44年に行われたアヒッチャトラ−遺跡の発掘調査によって出土した表面が黒色で丁寧に磨かれた精製硬質土器に対して与えられた名称で、北インドを中心に分布することを踏まえて、「北方黒色磨研土器」と命名された。皿(浅鉢)および鉢を基本器種としており、壺や甕はみられない。つまり、食膳具として製作・使用されたものであり、赤色軟質土器による貯蔵具や調理具が伴う。
T.N. Roy(1983,1986)や上杉彰紀(2003)らの研究によって前期(前6世紀〜前4世紀頃)と後期(前3世紀〜前1世紀頃)に分期されることがわかっている。前期の北方黒色磨研土器は厚さが1mm〜3mmと非常に薄く、きわめて丁寧に製作されているが、高貴になると、厚さが4mm〜6mm程度に厚くなり、表面調整も粗雑化する傾向がみられる。
また、前期には北インド(現在のインド共和国ウッタル・プラデーシュ州およびビハール州)に分布が限られるが、後期になると周辺地域に分布を広げ、西インド、東インド、北西インド(現在のパキスタン)、さらには南インドの遺跡でも出土するようになる。
その起源についてみると、先行する時期(前10世紀〜前7世紀)に北インドのガンジス川流域東半部に一般的であった黒縁赤色土器(Black-and-Red Ware)、黒色スリップ土器(Black Slipped Ware)を技術的・形態的基盤としていると考えられる。彩文灰色土器を祖形とみなす言説があるが、彩文灰色土器はガンジス川流域西半部に分布する土器であり、交渉関係はあるものの系譜関係にはない。
南アジアの初期歴史時代を特徴づける考古資料の一つである。
【参照文献】
インド共和国ウッタル・プラデーシュ州マヘート遺跡出土の北方黒色磨研土器 |
1940〜44年に行われたアヒッチャトラ−遺跡の発掘調査によって出土した表面が黒色で丁寧に磨かれた精製硬質土器に対して与えられた名称で、北インドを中心に分布することを踏まえて、「北方黒色磨研土器」と命名された。皿(浅鉢)および鉢を基本器種としており、壺や甕はみられない。つまり、食膳具として製作・使用されたものであり、赤色軟質土器による貯蔵具や調理具が伴う。
北方黒色磨研土器の分布 |
T.N. Roy(1983,1986)や上杉彰紀(2003)らの研究によって前期(前6世紀〜前4世紀頃)と後期(前3世紀〜前1世紀頃)に分期されることがわかっている。前期の北方黒色磨研土器は厚さが1mm〜3mmと非常に薄く、きわめて丁寧に製作されているが、高貴になると、厚さが4mm〜6mm程度に厚くなり、表面調整も粗雑化する傾向がみられる。
また、前期には北インド(現在のインド共和国ウッタル・プラデーシュ州およびビハール州)に分布が限られるが、後期になると周辺地域に分布を広げ、西インド、東インド、北西インド(現在のパキスタン)、さらには南インドの遺跡でも出土するようになる。
その起源についてみると、先行する時期(前10世紀〜前7世紀)に北インドのガンジス川流域東半部に一般的であった黒縁赤色土器(Black-and-Red Ware)、黒色スリップ土器(Black Slipped Ware)を技術的・形態的基盤としていると考えられる。彩文灰色土器を祖形とみなす言説があるが、彩文灰色土器はガンジス川流域西半部に分布する土器であり、交渉関係はあるものの系譜関係にはない。
南アジアの初期歴史時代を特徴づける考古資料の一つである。
【参照文献】
- Roy, T.N. 1983 The Ganges Civilization: A Critical Archaeological Study of the Painted Grey Ware and Northern Black Polished Ware Periods of the Ganga Plains of India. Ramanand Vidya Bhawan, New Delhi.
- Roy, T.N. 1986 A Study of Northern Black Polished Ware Culture. An Iron Age Culture of India. Ramanand Vidya Bhawan, New Delhi.
- 上杉彰紀 2003「北インドの精製土器(Ⅱ)-北方黒色磨研土器を中心として-」『関西大学考古学研究室開設五拾周年記念 考古学論叢』1241~1262頁
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